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92歳祖母他界 – 幸せセルフプロデュース

92歳祖母他界

週末からちょっとバタバタしていました。

実は、92歳になる祖母が他界しました。

あっ、悲しまないでくださいね☆

だって、92歳ですよ。

よく考えると・・・

92歳ってすごくご長寿ですよね。

沖縄から大阪にやってきた祖母の人生を

ちょうど手元に祖母の人生を語っている

新聞記事があるので振り返ってみたいと思います。

(毎日新聞『福田隆記者』)

☆幸せ☆セルフプロデュース

「貧困を超え」というタイトルに

ドン引きしないで下さいガーン

祖母は沖縄今帰仁村の出身で

1944年米潜水艦に撃沈された対馬丸と同じ船団で

長崎県佐世保市に命からがらつきました。

「魚雷が来るのが

 スーッと本当に見えたんですよ。」

最初は、数年で帰郷するはずだったようなのですが

沖縄は地上戦で焦土と化していました。

なので、父を含む幼い子供3人を育てながら

大阪で生きていく決意をしたそうです。

(以下、新聞記事を抜粋します。)

「 言いたくないほど貧しかった。

 沖縄人は、着ているものも

 みすぼらしくてね・・・。

 幼い子を抱え、豆腐売り、

 ヤミ米販売となんでもやった。

 同郷の人たちが支えてくれた。」


1947年薬局を開く。

「 家に畳はなく、雨をしのぐだけ。

 製材所で板を買って、ショーウィンドーに、

 3円の目薬を3つ、4つ並べた。

 奈良に薬と米を交換しに行った。

 テレビにアフリカの子供が出るでしょ?

 (当時は)あれほどだったんじゃないか。」

72年沖縄が本土に復帰した。

「みんな喜んでたね。」と振り返る。

「沖縄に帰りたい?」との問いに

「今は思わんね。」と強がってみせた。

表情には、帰郷の機会を戦禍に奪われた悲しさと、

本土で力強く生きてきた自信が相半ばしていた。

ウチナンチュというものは、洗って洗えるもんじゃない

捨てて捨てられるもんじゃない。

ウチナンチュであることを誇りに思っています。

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本土での生活は貧しさとの闘いだったんですね。

でも祖母はすごい負けず嫌いで

気も強くて、いたづらばかりする私は

叱られてばっか、でしたあせる

今帰仁村で教師をしていた祖母。

実は医者になりたかったそうですが

まずし過ぎて無理だったそうです。。。

でも、貧しさを言い訳にしたくなかったらしく

父を含め3人の子供たちを医者にしました。

その後、祖父が他界して

週に二回は沖縄民芸居酒屋に通い

お友達と再会を楽しんだり・・・

おっと。

彼氏もたくさんいたんですよ~( ´艸`)

私はモテルのよっ。

などと言ってましたから。。。

小学生の頃、本当にいたづらばっかりしてた私は・・・

祖母の家の窓ガラスを割って(鍵を失くして)

侵入しお菓子を食べました。。。

大人になって時効かな??

と思い白状したら、窓ガラス代3万円

きっちり取り立てられましたガーン

イタヅラはこれだけじゃないけど。

天国で待ってて、そのうち白状しますから。。。

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